このブログについて

人の生い立ちを軽々しく扱いたくない、機能不全・アダルトチルドレン・共依存・ダブルバインド、モラルハラスメントなど・・・感じたこと。

2008年05月03日

自己愛変質、自己中心的思考、自己愛人格傾向(モラルハラスメント関連)

自己愛 変質、自己中心的思考、自己愛人格傾向・・・について(モラルハラスメント関連)

-モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない
マリー=フランス イルゴイエンヌ (著), Marie‐France Hirigoyen (原著), 高野 優 (翻訳)

マリー=フランス イルゴイエンヌさんの講演会の記録から

モラル・ハラスメントの加害者が、どうやって生み出されるかについては、幼少期にどのような教育を受けたかが大きいのです。

加害者として多く見られるケースは、本人自身が幼少期にモラハラ(精神的暴力)の被害者であった場合や、もしくは溺愛崇拝され、制限がなかったタイプのケースがあります。

私はそのような事象はすべて関連があると思っております。家庭内暴力も職場におけるハラスメントも同じだと思います。そのため暴力の様々な形態にも興味をもっており、家庭内暴力もそうです。

幼少期に制限を知り、他者への敬意や配慮・尊厳を学ばせるという教育が大事なのです。

マリー=フランス イルゴイエンヌさんの講演会記録のお話を読み、いつも思うこと、暴力から暴力が生まれ、支配から支配が生まれ・・、溺愛崇拝からは溺愛崇拝と・・・、


人というのは、育った中で自分がされてきたこと、教わったことを身につけてくるんですよね・・

なので、育った過程の中で、他者への敬意や配慮・尊厳を学ばせるという教育がなければ、他者の人格というのも考慮しない人になる可能性はあると私も思います。


子供自身が親から、敬意や配慮・尊厳、受けることが出き、そして他者にも敬意や配慮・尊厳する事を親から学ぶ。自分が親からされた、敬意や配慮・尊厳を実感としても体感し学び、そして他者へも、敬意や配慮・尊厳を持った関わりをする。 その関わりに自己中心的思考は見当たらない。


自己中心的思考者は、自分への敬意や配慮・尊厳は要求するが、他者へはしない。自己中心的思考者が他者へすることは、自分中心になる為の支配とコントールが主な関わり。自己中心的思考者は、常に自分。自分がどれだけ優位か、他人がどれだけ利益になるかが重要のようだ・・・



私の知ってる、モラハラさんは
「自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない」

と自己評価の低いある人に、偉そうに言い放ってたのを覚えています。

私にはとても抵抗感がありました・・・。私が感じたのは、

「自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない」と言ってるモラハラさんが(以下その人)自身が、人を大事にしていない・・・と感じる事が多かったからかもしれません・・

人を大事にするというのは、どういう事なのだろうか・・

その人がいつもしている
自分のお気に入りの人や自分にとって得になる人だけを大事にすることだろうか・・?
その人がいつもしている人との関わり方というのは、どうもいつも差別感を感じていたので、


私にとって人を大事にするというのは、尊重だと感じてるので、その人への偏った関わり方に、大事にしているとは私は感じることが出来なかったので、とても違和感があった。



自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない・・・?

違う、違う、私はそう思わない。というかその言い方がなんかおかしい。


大事に思われて育った経験の無い人は、
他者を大事にすることが、どういうことかわからない・・

だからと言って、自己中心的な自分達さえ良ければよいという、偏った考えからくる大事にされた・・という育ちなら、人へも同じように偏った関わり方になる・・・・


イルゴイエンヌさんが言うように、

他者への敬意や配慮・尊厳が基本にある育ちなら、自分も他者の人も含め敬意や配慮・尊厳の気持ちが育つ。

全ては、どのように考えて生きてきたか・・?だと思う・・・



相手を思うときの動機は何か?

・相手の気持ちを思いやることからくる動機か?

・自分が中心でいたい、優位でいる為の動機か?

どのような動機か・・・?


自分が常に中心でいたい、常に優位でいたいと思ってる人が言う、

「自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない」


なんて言葉・・・。
まったく、よく言えたもんだ・・と思う。


「妻が夫への口のきき方が悪いから、妻は暴力を受けるのよ」
「DVなら警察に届ければいいじゃない」

と、暴力ということに対しても、冷ややかに簡単に話すことしかできない人だ。人の尊重や配慮は感じられない。

この人から「人を大事にする」という事を学びとれる事は出来ない。


人を自分中心の為に、支配しコントロールすることが思考の中心にある人に、「人を大事にする」という事を学びとれる事は出来ない。

暴力というのは、人を支配しコントロールする為の、腕力のある人にとっては、ある意味手っ取り早い、人を自分の思い通りにさせる、コントロールする、支配する為の方法です。そんな事も気がつかない人に、「人を大事にする」という事を学びとれる事は出来ない。


参考にさせて頂いた講演会の記録
www.morahara.org/news_letters/no.1.pdf

2008年04月23日

現実を知ろうともしない、痛みに気づかない、無責任さ

インターネットのマイナス要因がしばしば取り上げられます・・・

インターネットのマイナス要因・・、
匿名でありながら色んな人と交流できるというのは、確かに危険な要因です。それは充分わかります・・・。

ならば、インターネットの利点は?というと、色んな情報が読めること・・・

今まで、本や講義や講演会などでしか得られなかった情報が、ネットを通じで得られるようになってきた。

例えば医療に関して言えば、病状・症状についても、またいろんな患者さんの治療経験を読めたり出来るので、病気に対する知識も増え、病気に対しての無知からくる不安や、合わない治療を続けることへの病状の悪化などもだいぶ防げるようになったのではないかと思う・・。


今まで、本や講義や講演会などでしか得られなかった情報が、ネットを通じで得られるようになってきた

子供が幼児期の時は、インターネットが開通されたばかりで、今ほど情報は無かったので、当時の私は、本や講義や講演会で育児の話などを聴いて参考にしたりした。

子供が幼児期の当時の頃は、講義や講演会で話を聴いてる中でも、自分ではちょっと違和感を感じる話もしばしばあった。

その違和感というか矛盾に感じるその話の内容に、疑問を持つ人と、

それでも、経験豊富の○○先生の話だからだとか、育児関連を長くやってきた○○さんの話だから・・という事だけで、信じる人と、

大きくわけるとこの2つにわかれますが、大概は経歴や肩書きだけで信じる人多いですね。まあそれは心情としては、充分わかります。



こんな事を言う人がいました。

「夫が妻に暴力を振るうということについて、
奥さんの言い方が悪いから、夫の暴力行為を助長するのよ」
「何かあったら警察を呼べばいいでしょ」

DV(ドメスティックバイオレンス)法が出来ても、上記のような考えを平気で言える人がまだまだいました。
(しかも、女性でこういった考えを持つ人がいるということ・・・)

私へモラハラした人がまさにこれを言ってました。
とても冷たい表情で言ってたのが、すごく印象に残っています。
それに、いくらDV法が出来たからと言って、警察を呼べば済むというほど簡単ではないはずなのに平気で言える。
私へモラハラした人は、人の心理に関わる職業をしてるのですが、冷淡な言い方を平気で出来る。そういう人が、人の心理に関わる職業をしていたりする。

世の中って学歴があれば、こうやってなんとかなっってます
それと、場面や人が変われば、途端に変貌できる器用さが多少あれば、人の気持ちなんて対してわからなくても、充分やってけます。

だから、人の心なんてわからなくても、とりあえず勉強して学歴つけて・・。
人間関係は、自分が損しない付き合いが出来てればOKというね。。
そんなおかしな考えが浸透しちゃうのもわかりますね。
だってそんな人がたくさんいるんだもん。



私は、もうずっと前から児童虐待関連の本は読んではいました。
衝撃的な事件があった時に、それについての背景を知りたくなり、ある本を読んで、虐待の影響を知り、それがきかっけで虐待関連の本を読んだりしてました。
そしてモラルハラスメント、機能不全家族、アダルトチルドレン、共依存・・・
どれも関連のある内容ですが、

まず、機能不全家族の中には、しばしば家庭内暴力の話が出てきます。そしてこれらの話の中で必ず言われるのは

「暴力を振るってる父を見て、男の子は暴力で人を支配する事を覚える」

「暴力を振るってる父を見て、女の子は暴力を受ける事は自分が悪いからだという事を覚える」


つまり、暴力は連鎖するんです。
虐待が、虐待を生むように。悪は悪を呼びますから。



「夫が妻に暴力を振るうということについて、
奥さんの言い方が悪いから、夫の暴力行為を助長するのよ」


という言葉が、どれだけ無責任で人を傷つける言葉であるか、と思います。

現実を知らないから、痛みに気づかない、無責任な言葉をあちこちにばらまいています。


でも、
今は、インターネットの時代で、暴力は暴力しか生まないという話があちこちで書かれています。ですから、こんなこと、無神経すぎて平気で言えない、


どこかで気が付けば、まあ多少の修正はしてると思います。

言葉を修正するだけ、でしょうけど・・・

その言葉で、相手を傷つけてきたことは、全く覚えて無いでしょう。。


世の中って学歴があれば、こうやってなんとかなっってます。
だから、人の心なんてわからなくても、とりあえず勉強して学歴つけないと・・いうおかしな考えが浸透するのは、当然です。

心よりも、肩書きや経歴、学歴です。
心を磨かなくても、肩書きや経歴、学歴があれば人から信頼されます。


そういえば、最近エリートの象徴である、官僚や
家柄の象徴である、伝統の老舗の店での偽装などで、逮捕や解任など出てますけど、

氷山の一角かもしれません・・

身近には、たくさんの信頼出来ない権威を、
信頼している人達もいますから・・・


例えば、その人の一見穏やかに見えるその雰囲気とは、
全く別の冷酷さを、見たことが無い人には
ただの良い人に見えるかもしれません。

ヘタすると、包容力のありそうな人とかね・・
もう、こういう光景は、バカバカしくて、
これ以上、偽善なお芝居は、見たくないので、私はそういった場からは退場するのみです。

2008年04月22日

モラルハラスメントと機能不全と自己愛人格

モラスハラスメントは、人間関係の中で起こる出来事なので当然いろんなパターンがあると思うけど、会社の上司が行うモラハラは、その上司じたいにも何かしらのストレスがあり、そのストレスを部下に発散させるような、簡単に言えばヤツ当たりみたいな印象があります。

なので、上司のこのストレスが軽減されれば、上司のモラハラも軽減されたりします。これが、ストレス習慣型のモラルハラスメントだと思います。


そして、自己愛性格型(自己愛変質、自己理解のゆがみ)のモラルハラスメントの方がなぜ深刻かというと、

自己愛性格型の人は、家族暦、生きてきた人間関係、その長い年月をかけてその人格に出来上がってきた人なので、上司のストレスのように、長くてもここ数年のストレスとは訳が違うのは当然です・・・



自己愛性格型(自己愛変質、自己理解のゆがみ)人は、その自信にあふれた姿が、時には魅力的に見えます。また同時に、学歴や経歴があり、そこそこの上流家庭育ちであれば、お嬢様、お坊ちゃまとして、ほとんど気苦労というものから遠ざかって生きてこれたりします。

でも、自己愛性格型(自己愛変質、自己理解のゆがみ)の人、自己愛人格の人は自分を本当に愛してないとも聞きます。なぜなんでしょうか・・

そもそも「愛」ってどういう意味なんでしょうかね・・・・??

自分さえ良ければよいというのは、愛か?
自分は、いつだって悪くないと思えるのは、愛か?
自分に都合の良いことだけ解釈し、相手の心の傷付きには気が付く事が出来ないのは、愛か?

そもそも自己愛なんていう言い方が、誤解を招く気がすると思う・・

自己愛じゃなくて、

自己中心的思考じゃないか・・・?

って思うけど。


愛というのは、どんな事も大きな器で受け入れるとする意味ならば、

本当に自分を愛してる人は、自分に降りかかることをちゃんと感じて、自分にとって耳の痛い事でも、背けずに認めることではないか?

例えば、自分にとって耳の痛い事でも、背けずに認めることとは、これは責任感につながる。

いわゆる自己愛の人がよくやる、依存的で自分の行動に責任を持たないというのとは、対極にある。

なぜ、対極か・・、

本当に自分を愛してる、大事にしている人は、人としての心の成長を心から望んでいるからだと思う。


自己愛の人がよくやる反省とは、身近な直接の相手には感謝したり、礼をつくしたりする事ではない。生身の人間には、頭を下げたりしないのだ。特に自分より下だと思ってる相手に対しては特にね・・。 教会に行って聖書を読んで、懺悔してることで心の成長が得られてると思ってる。

自己愛の人は、自分は特別だと思ってるので、自分にとって特別な人にしか、謝らないし、反省もしない。、自分は特別だと思ってるので、自分にとって特別な人、特別なこと以外は、どうでも良いのだ。
これが、世間で言えば、弱肉強食であったり、モラハラであったり、パワハラであったりもする。

心の成長とは、身近の人に対しての、思いやりだったり、感謝だったり、礼を述べることだったりすることなのに・・・。


なぜ、アルコール依存の自助グループに、「ACのための12ステップ」と「AAの12の伝統」など、霊的成長などという、考えがあるのか・・




人間としての成長を心から望むとは、

自分さえ良ければよい、ではない
自分は、いつだって悪くない、ではない
自分に都合の良いことだけ解釈し、相手の心の傷付きには気が付く事が出来ない、ではない

人を落と入れて、そして自分が優位にいることで、自分の安心感を得ること、ではない
常に自分が上の立場でいるということに、自分の安心感を得ること、ではない


人間としての成長を心から望む人は、人を落と入れる事で、自分の安心感を得ることなんて出来ない。そんな事したらむしろ罪悪感でいっぱいになる。

人間としての成長を心から望む人は、自分が上の立場でいるということに対し、人の上に立つというのは、どれほどの人たちの思いや思考を受け止めることが出来るのか・・、どれほどの大きな責任感があるのか・・と感じる。 
高い位置の椅子に座って、ふんぞり返ってるような昔話に出てくる王様のような事なんてしない。


愛とは、心の成長を促す為の意志や努力する姿なんじゃないか・・と思う。


親が、子供を育てる姿にも当てはまる・・・
親という立場を利用して、子供を支配しコントロールすることじゃない。
子供の思いや思考をどれだけ受け止められるか、親として責任をもって育てること、その努力してる姿が愛じゃないの?

子供を育てる事に、子供に恩を着せ、自分のストレス解消にしてたりする。
変に我慢すると、恩着せ構しくなったりしない?・・・と思うけど、恩着せ構しさに愛は感じられないよ。

お母さんだって、大変なんだよって言っていいと思う。
言い方を工夫すればいいんだね。難しいかもしれないけど・・。
(↑これは、もちろん、自分に対しての言葉)



自己愛性格型(自己愛変質、自己理解のゆがみ)の人、
自己中心的な人の、一部の人の中には、

家柄、学歴、世間体、地位、経歴、などで、幸せや安心感を感じて生きてきた人もいると思う。


庶民は、そもそも家柄、世間体、地位、経歴、などあまり持ってない。せいぜい持ってるのは学歴や職歴くらいか? 庶民の間では、人間としての成長もある程度もってないと人して信頼してもらえなかったりする。

でも、家柄、学歴、世間体、地位、経歴、があれば、それほど人間としての努力や成長が無くても、信頼してもらえる。高い位置の椅子に最初から座ったまま、そこそこ生きていける。

だから、ストレスの感じ方も発散の仕方も、庶民とちょっと違うんだよ。
実際に、インテリの方がダブルバインドの使い手が多い。

(上流の方全ての事じゃないです。一部で感じた事です)


庶民は、ストレスに対して、赤ちょうちん行ったり、カラオケ行ったり、そもそもかっこなんかつけない。だってもともと別にかっこ良くないもん。偉くない。
庶民は最初から底辺をさまよってるので、上位席に居なくても不安にならない。
王様の気分を味わった事無いので、別に王様席にはこだわらない。


でも、生まれ育ったところが上流なら、上から眺めるばかりだろう。
小さい頃から、上から眺める環境で生きてきた。
ずっと、上位に居るから、上位から降りる事にとても不安を感じてる

その自分の負の感情を、出来るなら悪い印象を周囲に感じさせないで、
弱い者へ、そのツケをまわしてくる。

その状況が、モラスハラスメントと機能不全と自己愛人格、どれにも当てはまってしまう。


下流の場合、パワーハラスメントに行きやすいのかもしれないけど・・・
どっちがマシか?なんて・・比べるもんじゃないとは思う。

2008年02月15日

偽善者同士は仲が良い--類は友を呼ぶ

http://www.ashappy.net/psy/3/post-68.html

Xさんは、担任の先生への批判もすごかった。

「偽善って大嫌い」で、出てきた先生がこのときの担任の先生
http://www.ashappy.net/psy/3/post-47.html

不登校の女の子に何もしなかった先生

1学期に、その女の子が転校すると決まってから、転校するきっかけ?にさせてしまった?かどうかはわからないけど、一部のクラスの子達を睨んでいたけど、
アンタ自身、何もしてこなかったくせに、人を非難できるのか?・・というような先生
(この先生が、Z先生)

そんなZ先生なので、私自身の先輩からのいじめは、この担任の先生に相談する気にもならなかった。

上級生の担任をしている先生の中で、不良の先輩達をいつも堂々と注意できる先生に、私は相談した。


私は、この時から、偽善者とそうでない人の区別が出来て良かったと思う。
(相談する人を間違えると、話がどんどん混乱してきて、事態がもっと悪化することがあるから・・。
特に、偽善者は相手の為の善意行為ではなく、自分の為の善意行為なので、何も解決しない場合が多い。)

このとき、この上級生の先生に相談していじめがすぐに無くなったりはしなかったが、私としてはいつも嫌な思いで学校を過ごしていることを伝えることだけでも、何も言わないよりかはマシな気がした。


3学期も終わり、先輩達もやっと卒業した。

進級して、クラス替えの発表の前に、Xさんがこの中2の時の担任のZ先生に何かを伝えて、先生が「大丈夫だよ」と言っていたのが聞こえた。その後に、クラス替えが発表されて、新しいクラスに皆それぞれが移動した。

Xさんは、とても満足な表情で、新しいクラスに移動していった。
Xさんの、クラスの担任はこのZ先生だ。
中3になった時には、どの人から見ても、すっかり仲良しに見える、XさんとZ先生。

Xさんは、本当にすごい人だと思った。こんなに影で批判しながら、その人と大の仲良しになってる。
Z先生を強く批判していたXさん、Z先生と仲良しになってるXさん、
どっちが、本当のXさんなんだろう。

どちらにしても、私はXさんもZ先生も大嫌いだ。

私はXさんと違うクラスになった。良かったと思う。

2008年02月09日

誰も頼りになる人がいないとき

複数の上級生に生意気だと目をつけられ、相手は複数。相手の人数が多ければ学校でその上級生達に会う確率も高くなる。ほぼ毎日会っていた気がする。だから毎日、人格を否定される言葉を浴びることになる。

そして、そんな私から離れていく友達がいる。
トイレで実際に先輩の悪口を言っていた彼女は、見事に離れてくれた。それでも、その上級生達に、実際に悪口を言ってたのは、彼女だとは私は言わなかった。

(この彼女を、Xさんとして)
私は転校してまだ半年くらいしか経っておらず、困った時にどうしたら良いのか相談出来る友達がまだいなかった。それに、その状況を話したとして、誰が私の話を信じてくれるのだろうか?と思った。転校してきたばかりの私の話と、彼女Xさんのこと、どちらを信じるのか。



Xさんと私では、とうていわかりあえない何かを感じた。
部活が一緒、クラスでの班が一緒、なら当然、彼女Xさんと一緒にいる時間が私にとっても多くなる。そんな中で、彼女から出てくる話は、人の批判ばかりだ。一見すると人の批判を多く言うように見えない彼女だが、私と一緒の時はとても批判が多かった。

私は毎日彼女の人への批判を聞いていた。
今思うと、転校生で周りの人をほとんど知らない私だったからこそ、彼女・Xさんにとってはそういった話をするのに、私という人間が都合が良かったのかもしれないと思う。

転校したばかりで、誰がどんな人かわからないのに、彼女の人への批判を毎日聞いていた。でも彼女の批判を鵜呑みにすることは無かった。

なぜなら、例えばAさんの批判をしていたとして、その数分後Aさんに会ったとする・・、Xさんは何事も無かったように、Aさんに笑顔で話しかける。Aさんは、自分が数分前にXさんに辛辣に批判されていたなんて気が付きもしない。



前の学校の時は、友達に対し何かしらの不満があった場合、直接その思いを友達に話して、喧嘩もするけど、正直な思いを友達に伝える事で、どんどん仲良くなっていく。過去の喧嘩も笑い話に出来る付き合いをしていた私には、この周りくどい人への不満の表し方をとても陰険に感じた。

そして、「自分が損しない程度に行動できる」それに非常に長けている彼女Xさん・・。
それが私の彼女の印象。彼女には、とうてい私はかなわないと思った。
だって、ついこの間まで、友達に対しては、思ったことを口に出し、喧嘩してそして仲直り、その繰り返しで仲良くなる。そんな単純な付き合い方しか知らなかった私に、このXさんのような複雑で周りくどい付き合い方がどうしても自分にはできない。

しかも、友達には正直な思いでつき合ってきた私には、心の中にこんなにいろんなマイナスの思いをいつまでも抱えたまま、その人と付き合い続けるなんて・・。

こんなつき合い方、私ならされたくない!!
だから、私は友達にこんな思いをしたくない!!

とつくづく思った。

私と彼女は、人と付き合う上での根本的な部分の考え方が違うと感じた。だから何か私に困ったことを話しても彼女は何も私に理解を示す事はしないだろう。と感じた。

ことの事情を充分知っている彼女Xさんは、自分に損がないように、私から平然と離れていける彼女だ。

彼女もこの上級生の虐めにとても関わっている人なのに、私は彼女にこの事で何かを言うことは無かった。平然と去っていける彼女にと、立ち止ませるほどのものを私は何も持っていない。

彼女Xさんは、忘れっぽいADHDもなければ、アスペルガーでも無い。通常の発達の方です。
頭の回転の良い、場の状況をうまく読める彼女が、ここまでしらをきり通している、その彼女Xさんに私が、面と向かってたちうち出来る言葉をかけるものを何ひとつ私は持っていないと思った。



それでも、彼女を必要以上に憎まなくて済んだのは、それまでに付き合ってきた自分の友達のおかげだった。。私が本当に親しくなった友達は、こんな卑怯な付き合い方を友達にはしない。もっと正直で堂々としている。正直で堂々としていることを自分も信じることが出来た。

ただ、私の母は相変わらず、私の苦悩を知ろうともしない。
私がある日、「転校しなければ良かった。前の学校の友達の方が良かった」と言ったら

「あら、ついこの間までは転校して良かったと言っていたじゃない」と母に言われた。

「転校して良かった??」そんなこと私がいつ言ったのか??
むしろ「転校したくない」と、転校前に何度も言った覚えがあるが・・???

どうして、私の母はいつもこのように私の気持ちを勝手に違う内容に受け止めるのだろう。

私が母に伝えた話が、母には、母の都合の良いように、または母が勝手に母の都合の良い内容に変えられてしまう。私のきちんとした気持ちを母に届いた記憶がほとんどない。

そういえば、先日母が「鈍感力」を読んでみたいと言った。
なんでも「自分はどうやら人の気持ちに鈍感な様なので読んでみたい」と言うのだ。
私は、「読んで欲しくない」と言った。私だけの感想では通じない母なので、一般的な人の感想として、アマゾンなどの本のレビューを見ればわかるが、多くの人が「鈍感=自己中心解釈で生きて良い」などど思ってはいないという事を伝えた。
本として売れたかもしれないが、内容としては非常に評価の低い内容であることを伝えた。

これ以上、人の気持ちを踏みにじってる行為に、あまりにも自己中心的な自己正当化を加えないで欲しいと思った。自己中心的な言い訳、自己中心的な気持ちだけを押し付けてくるのは、もううんざりだ。あなたの気持ちもあるだろうが、こちらの気持ちもあるのだ。

お願いだから、自分だけの気持ちを押し付けるだけで話を終わりにするのはやめてくれ。
お願いだから、相手の気持ちを受け止めた上で、自分の気持ちを伝えてくれ。



人の話をきちんと聞かない、気持ちを理解しようとしないという行為へ非常に許せないのは、こんな母との毎日の繰り返しからも来ている。

当時の私にとって、自分の思いがそれなりに届くという実感をどこで得ていたか。

それはテストの点数だった。
それなりに勉強すれば、それなりの点数でその努力が報いになる。テストの点数は私を裏切らない。当時の私の慰めはテストの点数だった。

または、好きなスポーツ。自分が努力すればそれなりの成果で返ってくる。
これで自分の自己評価や精神面を保つことが出来た。

だからこそ、それさえ出来にくい、自分の努力がいつも空しく終わるのであれば、心が壊れるのは、当然のことだろう。

また、当時の私が自分の自己評価や精神面を保つことが出来たからといって、これで終わった訳でない。その数年後、高校生の時にこの時の痛みが後遺症となって出てきた。

人の思いを知りもしないで、断定的に言う
鈍感すぎて気付く努力にもいかない
勝手に自分中心に物事を解釈する

そんな人たちにまで、これ以上心を踏まれてまで耐えられる強い人、
そんなに強い人がこの世の中にたくさんいるのか?

軽々しく人の心を扱う人々、そんなふうに感じるたびにいつも怒りを感じる
人の心は、それぞれの人にとって大事なものです。
それぞれの人の大事なものは、大事に扱うべきだと思う。



例えば
混んでる電車の中で、電車の揺れの関係で誤って人の足を踏んでしまった時、どうしますか??

「わざとではないので謝らない」
「わざとでは無いが、人に痛みを与えたのは事実なので、謝る」

どちらですか?

「わざとではないので謝らない」
「悪気はないので謝らない」
本当に、そういった考え方でよいのでしょうか・・?


「わざとでは無いが、人に痛みを与えたのは事実なので、謝る」
こう思えた人、私も同じ気持ちです。
心も同じだと思います。
痛みを与えたという事実があるなら、それについては気がつき相手の気持ちを癒すことに気持ちを向ける努力する。

心は、物のように傷つけた時に、そのキズが目に見えてわかるものでもない
心は、肉体のように、傷つけた時に目に見えてその傷がわかるものでもない
わからない心は、わからないままのあやふやでよいのだろうか?

わかりにくい他者の心を、人の気持ちを理解するには、わかろうとする思いや気持ちは必要だとは思っています。多くの人は、人を第一に思いやるほど、自分に余裕が無かったり、多くの人を受け入れるほど心が広く無い。それなら尚のこと、理解しようとする思いや気持ちは必要だと思う。

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