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このサイトについて

・色々あって、ダブルバインド、モラルハラスメント、自己愛人格障害の関連話ばかりになってしまってます。

・ページURL変更してます。

自分に厳しい人、自分に甘い人

機能不全からの回復、AC(アダルトチルドレン)やアディクション(依存)をテーマにした自助グループに行ってる・・。

4年前、過食での15kgの急激な体重増加、不眠、強迫観念、フラッシュバック・・・それを起していた時、「私が人間として未熟だから、このようなストレスになるんだ・・。今はこれを何とか乗り越えないと・・」と思っていた。

だから、必死に心の痛みを我慢した。もちろん、不眠、強迫観念、フラッシュバックがあるので、メンタルクリニックに行き安定剤も貰ったりもした。でも薬は、一時的な対症療法にしかならないのを知ってたので、薬を飲んで良くなるとは思わなかった・・

だって、虫歯で歯が痛いとき、痛み止め飲んでも、薬の効果が切れたらまた歯が痛むでしょ。それと同じ。心も安定剤の効果が切れたら、また情緒不安定になるよ。原因を何とかしなければ、変わらない。でも原因については、我慢しろで通してきた・・。というか、「我慢しろ」と言われてきた。

心の痛みに、心の痛み止めとしての安定剤飲んで良くなると言う人ばかりじゃない・・・・。
特に、ACや、心のとらわれを抱えてる依存になりやすい人に、薬は新たな依存にしかなら無いよ・・。だから、心も知らずに、安易に薬を飲んだの?とか言うヤツはやなんだよ。



2年目経ち、ダイエットが成功して体重を戻した・・。
ついでに年々頭痛・肩こり・ドライアイが酷くなってきたので、煙草も辞めた・・。食事内容も健康的な菜食中心にし、煙草を辞めたので、ウォーキングもしやすくなり、運動しながらストレス解消など・・、ここまで健康的な生活が出来ている自分は、もう大分回復してるのだろう・・と思っていた。

でも私の本当の問題は何も良くなっては無かった・・・。それは感じていた。だからそれを何とかしない限り、またいつかは過食になるかもしれない、煙草は辞めてもアルコール依存になるかもしれない・・と思っていた。

ACの自助グループで、
「今まで自分一人で、この大変な状況を乗り越えられる、何とかなるとやってきたんでしょ・・。でも、もう無理しなくていいんだよ・・・。頑張らなくていいんだよ・・」
と言われ、まずはここは、安心出来る場所かもしれない・・・・と思った・・


私が精神不安定になる関係で、よく聞かされるセリフが
1.「ぶーにゃさんはしっかりしてるんだから、わかってあげないと。受け入れるべき。」
2.「○○さんは、大変な人だから、わかってあげないと。受け入れるべき。」
3.もしくは、一方的にアドバイスされたりすること。

1、2、3、のこのやりとりは、ACの親子や機能不全の関係とすごく似てる・・・。機能不全の関係とは、基本的に互いの尊重は無い。一方的な関わりだから、互いの気持ちを折り合いするような話は出来ない。「互いの尊重の為の話し合いが出来ない、もしくは話し合いをしているように見えても、それは相手を心理的に操作する為の話し合いだったりする」というのが、機能不全である


一方的に我慢を強いてくる関係・・・。
立場の逆転(下の者が上の者を気遣いつつ、責任も下の者が取らされるような感じ)
矛盾なこと、理不尽だと感じてもそれについて話し合いをしてはいけない雰囲気。
ダブルバインドも、もちろんあったから、

私の心のキャパシティー(能力)を越えた要求をされ、私は自分の心のバランスを取る為に、過食に走った。

「自分では納得してない事に我慢してんだ! だから、我慢した分、自分の心が要求不満だ! 心が満たされない!! だからせめて腹を満たしてやれ!!」

なんかそんな感じで、過食のスイッチが入って行った・・・。




矛盾や理不尽を感じてるのに、それについて話し合いは出来ない。
話し合いは無いまま、不可解と納得のいかないまま、受け入れるべきとなる・・
そういった状況になると、私にとっては、ある意味一種の心のどこかのスイッチを押す事になる・・・

ACでアディクション(依存)の傾向のある人は、そんなもんなんだ。。。。

ずっと抱えてきたもの、ずっと刷り込みを受けてきたことがあるから

ある言葉や、ある関係は、ACでアディクション(依存)のある人にとっては、心のどこかのあるスイッチを押すになってしまう・・・

そのスイッチは、煙草かもしれない、過食かもしれない、アルコールかもしれない、人間関係の共依存かもしれない、引きこもりかもしれない、ゲーム依存かもしれない。


・・・・

私は「自分に厳しくしてきた・・」だから、「自分に甘いヤツを受け入れる事はできない」
だから、私は、、「自分に甘いヤツ」特に「自己愛人格傾向のヤツ」はすぐわかる。

それじゃあ、「自分に厳しい」、という自分の考え方、生き方の癖を取り払えば、、「自分に甘いヤツを気にしなくて済むか?」と言われれば・・・わからない・・・


だって、そもそも「自分に甘いヤツが」、「自分に厳しくなれる素質のヤツ」をうまいこと見つけて、刷り込み開始、心理的操作(支配とコントロール)、共依存開始なんだよ・・・・。

許せるかどうかはわからない・・・


自己愛者は、自分の都合で動いてくれる共依存者はうまく見つけるけど、自分の体を苛める依存はしないんだよ。 だから、、自分の体や心を苛める依存者達みたいに、病院送りにもなかなか、ならないのだ。

まだまだ、自己愛者達には怒りを持ってる。
というか今は怒りたい時間だけ、いくらでも怒らせて欲しい。

ピア カウンセリング 公平な時間と人権の尊重

ある自助グループを知って、知ることによりかえってその内容に疑問を持ち?、その関係の中でダブルバインドを知り、モラルハラスメントを知って、機能不全を知り、

機能不全から、AA 12 の ステ ッ プ(自助グループが始まりとなる相互援助の活動の中の約束)を知り、本当の意味で対等に語り合う、人権を尊重した語り合いとは?と調べているうちに、ピア カウンセリングにたどりついた・・

そして、ピア カウンセリングの公開講座に参加させてもらいました・・

内容は、
ニューアンドグッズ
→ 新しく発見したこと。楽しかったことなどを話すこと
セッション
→ 共に決めた時間を対等に分け合って、傾聴しあう

・リレーション(関係作り)
・ピア・カウンセリングとは(ピアとは?)
・人間の本質と感情の解放

などやりました・・・。



共に決めた時間を対等に分け合って、傾聴しあう心地良さに、私はとても安心感を覚えました・・。

確かに話す時間は限られてるているんです。3分〜5分のたったの数分です。それでも、私が話している間、聴いてる方は、口出しは一切してはいけません。ただ傾聴するのみなんです。

相手の言葉の突っ込みで思うように話せない時がある私には、3分〜5分のたったの数分でも、自分の思いを何の批評も評価も無く、ただただ聴いてくれる・・、にとても安心感を感じるとともに、

ありのままでいいんだよと・・言う、尊重と
時間を公平に分け合い話すと言う、
偏りの無い関係、偏りの無いコミニュケーションを、

本当に今まで随分として来なかった・・

こんなに公平で人の思いの尊重を感じ、安心して話せる・・そんな時間を今までどれだけ持てたことがあるか・・??と思うと、涙が出てきます・・・


子供が発達障害と診断受けてから、12年経ちましたが、どの講演会・講座よりも暖かく、心にたくさんの力をくれた気がしました。

ピア カウンセリング講座の講師さんも本当に人格の優れた方々で本当に素晴らしかったです。

そして、もともとの自助グループ、セルフヘルプとは、基本の考えの中に
・互いに対等であること、互いに尊重すること

というのがあるが、これがなされて無い自助グループ、セルフヘルプはたくさんある。



↓ピア カウンセリング内容について記載のある参考サイト
http://www.akita-kenmin.jp/s-shien/contents/piakan/piakan.htm

・ピア → 同じ仲間、障害者、同じ背景を持つ人同士。

・ピア・カウンセリング
→ 同じ背景を持つ人同士が対等な立場で話を聞き合う。
  
・ニューアンドグッズ
→ 新しく発見したこと。楽しかったことなどを話すこと。
  
・セッション
→ 共に決めた時間を対等に分け合って、交互にカウンセリングをしあうこと。
    
・ロールプレイ
→ 自分がぶつかっている問題を再現する模擬劇。劇によって自分の意志を伝える。
    
・デモンストレーション
→ セッションやロールプレイのやり方を、みんなの前で実演して見せること。
    
・シンク アンド リッスン
→ 3人以上の人があるテーマに沿って、時間を対等に分け合って意見を述べ合う。その際、聞き手は途中で意見や質問を差し挟まずに、相槌を打ちながら丁寧に聞く。
    
・ディスチャージ
→感情が表に出ること。泣く。怒る。震える。汗をかく。笑う。あくび等。
   
・パターン
→ディスチャージされないまま傷が残った結果、傷ついた時の苦しい感情や思考不能な状態がパターンになって回りだし、似たような場面になると、そのパターンが表れて、柔軟な対応が出来なくなる。
   
・コントラディクト
→ その人の本質を否定している状態(パターン)をカウンセラーが否定して、クライエントの本質を引き出すための働きかけ。
   
・クロスネス
→ 触れること。抱きしめること(ハグ)。
   
・テンションバック
→ カウンセリングが終わった時、クライエントを現実に引き戻すためにカウンセラーが簡単な質問をすること。
   
・アプリシェーション
→ 賞賛(誉めること)。相手に自信を持ってもらって、自己信頼につなげられるように相手を誉めること。
   
・コミットメント宣言。
今やりたいこと。やってみたいことを話すこと。
    
・RC
→ Re-evaluation Counseling . 再評価のカウンセリング。 

自己愛変質、自己中心的思考、自己愛人格傾向(モラルハラスメント関連)

自己愛 変質、自己中心的思考、自己愛人格傾向・・・について(モラルハラスメント関連)

-モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない
マリー=フランス イルゴイエンヌ (著), Marie‐France Hirigoyen (原著), 高野 優 (翻訳)

マリー=フランス イルゴイエンヌさんの講演会の記録から

モラル・ハラスメントの加害者が、どうやって生み出されるかについては、幼少期にどのような教育を受けたかが大きいのです。

加害者として多く見られるケースは、本人自身が幼少期にモラハラ(精神的暴力)の被害者であった場合や、もしくは溺愛崇拝され、制限がなかったタイプのケースがあります。

私はそのような事象はすべて関連があると思っております。家庭内暴力も職場におけるハラスメントも同じだと思います。そのため暴力の様々な形態にも興味をもっており、家庭内暴力もそうです。

幼少期に制限を知り、他者への敬意や配慮・尊厳を学ばせるという教育が大事なのです。

マリー=フランス イルゴイエンヌさんの講演会記録のお話を読み、いつも思うこと、暴力から暴力が生まれ、支配から支配が生まれ・・、溺愛崇拝からは溺愛崇拝と・・・、


人というのは、育った中で自分がされてきたこと、教わったことを身につけてくるんですよね・・

なので、育った過程の中で、他者への敬意や配慮・尊厳を学ばせるという教育がなければ、他者の人格というのも考慮しない人になる可能性はあると私も思います。


子供自身が親から、敬意や配慮・尊厳を、受けることが出き、そして他者にも敬意や配慮・尊厳する事を親から学ぶ。自分が親からされた、敬意や配慮・尊厳を実感としても体感し学び、そして他者へも、敬意や配慮・尊厳を持った関わりをする。 その関わりに自己中心的思考は見当たらない。


自己中心的思考者は、自分への敬意や配慮・尊厳は要求するが、他者へはしない。自己中心的思考者が他者へすることは、自分中心になる為の支配とコントールが主な関わり。自己中心的思考者は、常に自分。自分がどれだけ優位か、他人がどれだけ利益になるかが重要のようだ・・・



私の知ってる、モラハラさんは
「自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない」

と自己評価の低いある人に、偉そうに言い放ってたのを覚えています。

私にはとても抵抗感がありました・・・。私が感じたのは、

「自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない」と言ってるモラハラさんが(以下その人)自身が、人を大事にしていない・・・と感じる事が多かったからかもしれません・・

人を大事にするというのは、どういう事なのだろうか・・

その人がいつもしている
自分のお気に入りの人や自分にとって得になる人だけを大事にすることだろうか・・?
その人がいつもしている人との関わり方というのは、どうもいつも差別感を感じていたので、


私にとって人を大事にするというのは、尊重だと感じてるので、その人への偏った関わり方に、大事にしているとは私は感じることが出来なかったので、とても違和感があった。



自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない・・・?

違う、違う、私はそう思わない。というかその言い方がなんかおかしい。


大事に思われて育った経験の無い人は、
他者を大事にすることが、どういうことかわからない・・

だからと言って、自己中心的な自分達さえ良ければよいという、偏った考えからくる大事にされた・・という育ちなら、人へも同じように偏った関わり方になる・・・・


イルゴイエンヌさんが言うように、

他者への敬意や配慮・尊厳が基本にある育ちなら、自分も他者の人も含め敬意や配慮・尊厳の気持ちが育つ。

全ては、どのように考えて生きてきたか・・?だと思う・・・



相手を思うときの動機は何か?

・相手の気持ちを思いやることからくる動機か?

・自分が中心でいたい、優位でいる為の動機か?

どのような動機か・・・?


自分が常に中心でいたい、常に優位でいたいと思ってる人が言う、

「自分を大事に出来ない人は、人を大事にすることは出来ない」


なんて言葉・・・。
まったく、よく言えたもんだ・・と思う。


「妻が夫への口のきき方が悪いから、妻は暴力を受けるのよ」
「DVなら警察に届ければいいじゃない」

と、暴力ということに対しても、冷ややかに簡単に話すことしかできない人だ。人の尊重や配慮は感じられない。

この人から「人を大事にする」という事を学びとれる事は出来ない。


人を自分中心の為に、支配しコントロールすることが思考の中心にある人に、「人を大事にする」という事を学びとれる事は出来ない。

暴力というのは、人を支配しコントロールする為の、腕力のある人にとっては、ある意味手っ取り早い、人を自分の思い通りにさせる、コントロールする、支配する為の方法です。そんな事も気がつかない人に、「人を大事にする」という事を学びとれる事は出来ない。


参考にさせて頂いた講演会の記録
www.morahara.org/news_letters/no.1.pdf

現実を知ろうともしない、痛みに気づかない、無責任さ

インターネットのマイナス要因がしばしば取り上げられます・・・

インターネットのマイナス要因・・、
匿名でありながら色んな人と交流できるというのは、確かに危険な要因です。それは充分わかります・・・。

ならば、インターネットの利点は?というと、色んな情報が読めること・・・

今まで、本や講義や講演会などでしか得られなかった情報が、ネットを通じで得られるようになってきた。

例えば医療に関して言えば、病状・症状についても、またいろんな患者さんの治療経験を読めたり出来るので、病気に対する知識も増え、病気に対しての無知からくる不安や、合わない治療を続けることへの病状の悪化などもだいぶ防げるようになったのではないかと思う・・。


今まで、本や講義や講演会などでしか得られなかった情報が、ネットを通じで得られるようになってきた

子供が幼児期の時は、インターネットが開通されたばかりで、今ほど情報は無かったので、当時の私は、本や講義や講演会で育児の話などを聴いて参考にしたりした。

子供が幼児期の当時の頃は、講義や講演会で話を聴いてる中でも、自分ではちょっと違和感を感じる話もしばしばあった。

その違和感というか矛盾に感じるその話の内容に、疑問を持つ人と、

それでも、経験豊富の○○先生の話だからだとか、育児関連を長くやってきた○○さんの話だから・・という事だけで、信じる人と、

大きくわけるとこの2つにわかれますが、大概は経歴や肩書きだけで信じる人多いですね。まあそれは心情としては、充分わかります。



こんな事を言う人がいました。

「夫が妻に暴力を振るうということについて、
奥さんの言い方が悪いから、夫の暴力行為を助長するのよ」
「何かあったら警察を呼べばいいでしょ」

DV(ドメスティックバイオレンス)法が出来ても、上記のような考えを平気で言える人がまだまだいました。
(しかも、女性でこういった考えを持つ人がいるということ・・・)

私へモラハラした人がまさにこれを言ってました。
とても冷たい表情で言ってたのが、すごく印象に残っています。
それに、いくらDV法が出来たからと言って、警察を呼べば済むというほど簡単ではないはずなのに平気で言える。
私へモラハラした人は、人の心理に関わる職業をしてるのですが、冷淡な言い方を平気で出来る。そういう人が、人の心理に関わる職業をしていたりする。

世の中って学歴があれば、こうやってなんとかなっってます
それと、場面や人が変われば、途端に変貌できる器用さが多少あれば、人の気持ちなんて対してわからなくても、充分やってけます。

だから、人の心なんてわからなくても、とりあえず勉強して学歴つけて・・。
人間関係は、自分が損しない付き合いが出来てればOKというね。。
そんなおかしな考えが浸透しちゃうのもわかりますね。
だってそんな人がたくさんいるんだもん。



私は、もうずっと前から児童虐待関連の本は読んではいました。
衝撃的な事件があった時に、それについての背景を知りたくなり、ある本を読んで、虐待の影響を知り、それがきかっけで虐待関連の本を読んだりしてました。
そしてモラルハラスメント、機能不全家族、アダルトチルドレン、共依存・・・
どれも関連のある内容ですが、

まず、機能不全家族の中には、しばしば家庭内暴力の話が出てきます。そしてこれらの話の中で必ず言われるのは

「暴力を振るってる父を見て、男の子は暴力で人を支配する事を覚える」

「暴力を振るってる父を見て、女の子は暴力を受ける事は自分が悪いからだという事を覚える」


つまり、暴力は連鎖するんです。
虐待が、虐待を生むように。悪は悪を呼びますから。



「夫が妻に暴力を振るうということについて、
奥さんの言い方が悪いから、夫の暴力行為を助長するのよ」


という言葉が、どれだけ無責任で人を傷つける言葉であるか、と思います。

現実を知らないから、痛みに気づかない、無責任な言葉をあちこちにばらまいています。


でも、
今は、インターネットの時代で、暴力は暴力しか生まないという話があちこちで書かれています。ですから、こんなこと、無神経すぎて平気で言えない、


どこかで気が付けば、まあ多少の修正はしてると思います。

言葉を修正するだけ、でしょうけど・・・

その言葉で、相手を傷つけてきたことは、全く覚えて無いでしょう。。


世の中って学歴があれば、こうやってなんとかなっってます。
だから、人の心なんてわからなくても、とりあえず勉強して学歴つけないと・・いうおかしな考えが浸透するのは、当然です。

心よりも、肩書きや経歴、学歴です。
心を磨かなくても、肩書きや経歴、学歴があれば人から信頼されます。


そういえば、最近エリートの象徴である、官僚や
家柄の象徴である、伝統の老舗の店での偽装などで、逮捕や解任など出てますけど、

氷山の一角かもしれません・・

身近には、たくさんの信頼出来ない権威を、
信頼している人達もいますから・・・


例えば、その人の一見穏やかに見えるその雰囲気とは、
全く別の冷酷さを、見たことが無い人には
ただの良い人に見えるかもしれません。

ヘタすると、包容力のありそうな人とかね・・
もう、こういう光景は、バカバカしくて、
これ以上、偽善なお芝居は、見たくないので、私はそういった場からは退場するのみです。

モラルハラスメントと機能不全と自己愛性人格(障害)

モラスハラスメントは、人間関係の中で起こる出来事なので当然いろんなパターンがあると思うけど、会社の上司が行うモラハラは、その上司じたいにも何かしらのストレスがあり、そのストレスを部下に発散させるような、簡単に言えばヤツ当たりみたいな印象があります。

なので、上司のこのストレスが軽減されれば、上司のモラハラも軽減されたりします。これが、ストレス習慣型のモラルハラスメントだと思います。


そして、自己愛性格型(自己愛性人格障害、自己愛変質、自己理解のゆがみ)のモラルハラスメントの方がなぜ深刻かというと、

自己愛性格型の人は、家族暦、生きてきた人間関係、その長い年月をかけてその人格に出来上がってきた人なので、上司のストレスのように、長くてもここ数年のストレスとは訳が違うのは当然です・・・



自己愛性格型(自己愛性人格障害、自己愛変質、自己理解のゆがみ)人は、その自信にあふれた姿が、時には魅力的に見えます。また同時に、学歴や経歴があり、そこそこの上流家庭育ちであれば、お嬢様、お坊ちゃまとして、ほとんど気苦労というものから遠ざかって生きてこれたりします。

でも、自己愛性格型(自己愛性人格障害、自己愛変質、自己理解のゆがみ)の人、自己愛人格障害、の人は自分を本当に愛してないとも聞きます。なぜなんでしょうか・・

そもそも「愛」ってどういう意味なんでしょうかね・・・・??

自分さえ良ければよいというのは、愛か?
自分は、いつだって悪くないと思えるのは、愛か?
自分に都合の良いことだけ解釈し、相手の心の傷付きには気が付く事が出来ないのは、愛か?

そもそも自己愛なんていう言い方が、誤解を招く気がすると思う・・

自己愛じゃなくて、

自己中心的思考じゃないか・・・?

って思うけど。


愛というのは、どんな事も大きな器で受け入れるとする意味ならば、

本当に自分を愛してる人は、自分に降りかかることをちゃんと感じて、自分にとって耳の痛い事でも、背けずに認めることではないか?

例えば、自分にとって耳の痛い事でも、背けずに認めることとは、これは責任感につながる。

いわゆる自己愛の人がよくやる、依存的で自分の行動に責任を持たないというのとは、対極にある。

なぜ、対極か・・、

本当に自分を愛してる、大事にしている人は、人としての心の成長を心から望んでいるからだと思う。


自己愛の人がよくやる反省とは、身近な直接の相手には感謝したり、礼をつくしたりする事ではない。生身の人間には、頭を下げたりしないのだ。特に自分より下だと思ってる相手に対しては特にね・・。 教会に行って聖書を読んで、懺悔してることで心の成長が得られてると思ってる。

自己愛の人は、自分は特別だと思ってるので、自分にとって特別な人にしか、謝らないし、反省もしない。、自分は特別だと思ってるので、自分にとって特別な人、特別なこと以外は、どうでも良いのだ。
これが、世間で言えば、弱肉強食であったり、モラハラであったり、パワハラであったりもする。

心の成長とは、身近の人に対しての、思いやりだったり、感謝だったり、礼を述べることだったりすることなのに・・・。


なぜ、アルコール依存の自助グループに、「ACのための12ステップ」と「AAの12の伝統」など、霊的成長などという、考えがあるのか・・




人間としての成長を心から望むとは、

自分さえ良ければよい、ではない
自分は、いつだって悪くない、ではない
自分に都合の良いことだけ解釈し、相手の心の傷付きには気が付く事が出来ない、ではない

人を落と入れて、そして自分が優位にいることで、自分の安心感を得ること、ではない
常に自分が上の立場でいるということに、自分の安心感を得ること、ではない


人間としての成長を心から望む人は、人を落と入れる事で、自分の安心感を得ることなんて出来ない。そんな事したらむしろ罪悪感でいっぱいになる。

人間としての成長を心から望む人は、自分が上の立場でいるということに対し、人の上に立つというのは、どれほどの人たちの思いや思考を受け止めることが出来るのか・・、どれほどの大きな責任感があるのか・・と感じる。 
高い位置の椅子に座って、ふんぞり返ってるような昔話に出てくる王様のような事なんてしない。


愛とは、心の成長を促す為の意志や努力する姿なんじゃないか・・と思う。


親が、子供を育てる姿にも当てはまる・・・
親という立場を利用して、子供を支配しコントロールすることじゃない。
子供の思いや思考をどれだけ受け止められるか、親として責任をもって育てること、その努力してる姿が愛じゃないの?

子供を育てる事に、子供に恩を着せ、自分のストレス解消にしてたりする。
変に我慢すると、恩着せ構しくなったりしない?・・・と思うけど、恩着せ構しさに愛は感じられないよ。

お母さんだって、大変なんだよって言っていいと思う。
言い方を工夫すればいいんだね。難しいかもしれないけど・・。
(↑これは、もちろん、自分に対しての言葉)



自己愛性格型(自己愛変質、自己理解のゆがみ)の人、
自己中心的な人の、一部の人の中には、

家柄、学歴、世間体、地位、経歴、などで、幸せや安心感を感じて生きてきた人もいると思う。


庶民は、そもそも家柄、世間体、地位、経歴、などあまり持ってない。せいぜい持ってるのは学歴や職歴くらいか? 庶民の間では、人間としての成長もある程度もってないと人して信頼してもらえなかったりする。

でも、家柄、学歴、世間体、地位、経歴、があれば、それほど人間としての努力や成長が無くても、信頼してもらえる。高い位置の椅子に最初から座ったまま、そこそこ生きていける。

だから、ストレスの感じ方も発散の仕方も、庶民とちょっと違うんだよ。
実際に、インテリの方がダブルバインドの使い手が多い。

(上流の方全ての事じゃないです。一部で感じた事です)


庶民は、ストレスに対して、赤ちょうちん行ったり、カラオケ行ったり、そもそもかっこなんかつけない。だってもともと別にかっこ良くないもん。偉くない。
庶民は最初から底辺をさまよってるので、上位席に居なくても不安にならない。
王様の気分を味わった事無いので、別に王様席にはこだわらない。


でも、生まれ育ったところが上流なら、上から眺めるばかりだろう。
小さい頃から、上から眺める環境で生きてきた。
ずっと、上位に居るから、上位から降りる事にとても不安を感じてる

その自分の負の感情を、出来るなら悪い印象を周囲に感じさせないで、
弱い者へ、そのツケをまわしてくる。

その状況が、モラスハラスメントと機能不全と自己愛人格、どれにも当てはまってしまう。


下流の場合、パワーハラスメントに行きやすいのかもしれないけど・・・
どっちがマシか?なんて・・比べるもんじゃないとは思う。

偽善者同士は仲が良い--類は友を呼ぶ

http://www.ashappy.net/psy/3/post-68.html

Xさんは、担任の先生への批判もすごかった。

「偽善って大嫌い」で、出てきた先生がこのときの担任の先生
http://www.ashappy.net/psy/3/post-47.html

不登校の女の子に何もしなかった先生

1学期に、その女の子が転校すると決まってから、転校するきっかけ?にさせてしまった?かどうかはわからないけど、一部のクラスの子達を睨んでいたけど、
アンタ自身、何もしてこなかったくせに、人を非難できるのか?・・というような先生
(この先生が、Z先生)

そんなZ先生なので、私自身の先輩からのいじめは、この担任の先生に相談する気にもならなかった。

上級生の担任をしている先生の中で、不良の先輩達をいつも堂々と注意できる先生に、私は相談した。


私は、この時から、偽善者とそうでない人の区別が出来て良かったと思う。
(相談する人を間違えると、話がどんどん混乱してきて、事態がもっと悪化することがあるから・・。
特に、偽善者は相手の為の善意行為ではなく、自分の為の善意行為なので、何も解決しない場合が多い。)

このとき、この上級生の先生に相談していじめがすぐに無くなったりはしなかったが、私としてはいつも嫌な思いで学校を過ごしていることを伝えることだけでも、何も言わないよりかはマシな気がした。


3学期も終わり、先輩達もやっと卒業した。

進級して、クラス替えの発表の前に、Xさんがこの中2の時の担任のZ先生に何かを伝えて、先生が「大丈夫だよ」と言っていたのが聞こえた。その後に、クラス替えが発表されて、新しいクラスに皆それぞれが移動した。

Xさんは、とても満足な表情で、新しいクラスに移動していった。
Xさんの、クラスの担任はこのZ先生だ。
中3になった時には、どの人から見ても、すっかり仲良しに見える、XさんとZ先生。

Xさんは、本当にすごい人だと思った。こんなに影で批判しながら、その人と大の仲良しになってる。
Z先生を強く批判していたXさん、Z先生と仲良しになってるXさん、
どっちが、本当のXさんなんだろう。

どちらにしても、私はXさんもZ先生も大嫌いだ。

私はXさんと違うクラスになった。良かったと思う。

誰も頼りになる人がいないとき

複数の上級生に生意気だと目をつけられ、相手は複数。相手の人数が多ければ学校でその上級生達に会う確率も高くなる。ほぼ毎日会っていた気がする。だから毎日、人格を否定される言葉を浴びることになる。

そして、そんな私から離れていく友達がいる。
トイレで実際に先輩の悪口を言っていた彼女は、見事に離れてくれた。それでも、その上級生達に、実際に悪口を言ってたのは、彼女だとは私は言わなかった。

(この彼女を、Xさんとして)
私は転校してまだ半年くらいしか経っておらず、困った時にどうしたら良いのか相談出来る友達がまだいなかった。それに、その状況を話したとして、誰が私の話を信じてくれるのだろうか?と思った。転校してきたばかりの私の話と、彼女Xさんのこと、どちらを信じるのか。



Xさんと私では、とうていわかりあえない何かを感じた。
部活が一緒、クラスでの班が一緒、なら当然、彼女Xさんと一緒にいる時間が私にとっても多くなる。そんな中で、彼女から出てくる話は、人の批判ばかりだ。一見すると人の批判を多く言うように見えない彼女だが、私と一緒の時はとても批判が多かった。

私は毎日彼女の人への批判を聞いていた。
今思うと、転校生で周りの人をほとんど知らない私だったからこそ、彼女・Xさんにとってはそういった話をするのに、私という人間が都合が良かったのかもしれないと思う。

転校したばかりで、誰がどんな人かわからないのに、彼女の人への批判を毎日聞いていた。でも彼女の批判を鵜呑みにすることは無かった。

なぜなら、例えばAさんの批判をしていたとして、その数分後Aさんに会ったとする・・、Xさんは何事も無かったように、Aさんに笑顔で話しかける。Aさんは、自分が数分前にXさんに辛辣に批判されていたなんて気が付きもしない。



前の学校の時は、友達に対し何かしらの不満があった場合、直接その思いを友達に話して、喧嘩もするけど、正直な思いを友達に伝える事で、どんどん仲良くなっていく。過去の喧嘩も笑い話に出来る付き合いをしていた私には、この周りくどい人への不満の表し方をとても陰険に感じた。

そして、「自分が損しない程度に行動できる」それに非常に長けている彼女Xさん・・。
それが私の彼女の印象。彼女には、とうてい私はかなわないと思った。
だって、ついこの間まで、友達に対しては、思ったことを口に出し、喧嘩してそして仲直り、その繰り返しで仲良くなる。そんな単純な付き合い方しか知らなかった私に、このXさんのような複雑で周りくどい付き合い方がどうしても自分にはできない。

しかも、友達には正直な思いでつき合ってきた私には、心の中にこんなにいろんなマイナスの思いをいつまでも抱えたまま、その人と付き合い続けるなんて・・。

こんなつき合い方、私ならされたくない!!
だから、私は友達にこんな思いをしたくない!!

とつくづく思った。

私と彼女は、人と付き合う上での根本的な部分の考え方が違うと感じた。だから何か私に困ったことを話しても彼女は何も私に理解を示す事はしないだろう。と感じた。

ことの事情を充分知っている彼女Xさんは、自分に損がないように、私から平然と離れていける彼女だ。

彼女もこの上級生の虐めにとても関わっている人なのに、私は彼女にこの事で何かを言うことは無かった。平然と去っていける彼女にと、立ち止ませるほどのものを私は何も持っていない。

彼女Xさんは、忘れっぽいADHDもなければ、アスペルガーでも無い。通常の発達の方です。
頭の回転の良い、場の状況をうまく読める彼女が、ここまでしらをきり通している、その彼女Xさんに私が、面と向かってたちうち出来る言葉をかけるものを何ひとつ私は持っていないと思った。



それでも、彼女を必要以上に憎まなくて済んだのは、それまでに付き合ってきた自分の友達のおかげだった。。私が本当に親しくなった友達は、こんな卑怯な付き合い方を友達にはしない。もっと正直で堂々としている。正直で堂々としていることを自分も信じることが出来た。

ただ、私の母は相変わらず、私の苦悩を知ろうともしない。
私がある日、「転校しなければ良かった。前の学校の友達の方が良かった」と言ったら

「あら、ついこの間までは転校して良かったと言っていたじゃない」と母に言われた。

「転校して良かった??」そんなこと私がいつ言ったのか??
むしろ「転校したくない」と、転校前に何度も言った覚えがあるが・・???

どうして、私の母はいつもこのように私の気持ちを勝手に違う内容に受け止めるのだろう。

私が母に伝えた話が、母には、母の都合の良いように、または母が勝手に母の都合の良い内容に変えられてしまう。私のきちんとした気持ちを母に届いた記憶がほとんどない。

そういえば、先日母が「鈍感力」を読んでみたいと言った。
なんでも「自分はどうやら人の気持ちに鈍感な様なので読んでみたい」と言うのだ。
私は、「読んで欲しくない」と言った。私だけの感想では通じない母なので、一般的な人の感想として、アマゾンなどの本のレビューを見ればわかるが、多くの人が「鈍感=自己中心解釈で生きて良い」などど思ってはいないという事を伝えた。
本として売れたかもしれないが、内容としては非常に評価の低い内容であることを伝えた。

これ以上、人の気持ちを踏みにじってる行為に、あまりにも自己中心的な自己正当化を加えないで欲しいと思った。自己中心的な言い訳、自己中心的な気持ちだけを押し付けてくるのは、もううんざりだ。あなたの気持ちもあるだろうが、こちらの気持ちもあるのだ。

お願いだから、自分だけの気持ちを押し付けるだけで話を終わりにするのはやめてくれ。
お願いだから、相手の気持ちを受け止めた上で、自分の気持ちを伝えてくれ。



人の話をきちんと聞かない、気持ちを理解しようとしないという行為へ非常に許せないのは、こんな母との毎日の繰り返しからも来ている。

当時の私にとって、自分の思いがそれなりに届くという実感をどこで得ていたか。

それはテストの点数だった。
それなりに勉強すれば、それなりの点数でその努力が報いになる。テストの点数は私を裏切らない。当時の私の慰めはテストの点数だった。

または、好きなスポーツ。自分が努力すればそれなりの成果で返ってくる。
これで自分の自己評価や精神面を保つことが出来た。

だからこそ、それさえ出来にくい、自分の努力がいつも空しく終わるのであれば、心が壊れるのは、当然のことだろう。

また、当時の私が自分の自己評価や精神面を保つことが出来たからといって、これで終わった訳でない。その数年後、高校生の時にこの時の痛みが後遺症となって出てきた。

人の思いを知りもしないで、断定的に言う
鈍感すぎて気付く努力にもいかない
勝手に自分中心に物事を解釈する

そんな人たちにまで、これ以上心を踏まれてまで耐えられる強い人、
そんなに強い人がこの世の中にたくさんいるのか?

軽々しく人の心を扱う人々、そんなふうに感じるたびにいつも怒りを感じる
人の心は、それぞれの人にとって大事なものです。
それぞれの人の大事なものは、大事に扱うべきだと思う。



例えば
混んでる電車の中で、電車の揺れの関係で誤って人の足を踏んでしまった時、どうしますか??

「わざとではないので謝らない」
「わざとでは無いが、人に痛みを与えたのは事実なので、謝る」

どちらですか?

「わざとではないので謝らない」
「悪気はないので謝らない」
本当に、そういった考え方でよいのでしょうか・・?


「わざとでは無いが、人に痛みを与えたのは事実なので、謝る」
こう思えた人、私も同じ気持ちです。
心も同じだと思います。
痛みを与えたという事実があるなら、それについては気がつき相手の気持ちを癒すことに気持ちを向ける努力する。

心は、物のように傷つけた時に、そのキズが目に見えてわかるものでもない
心は、肉体のように、傷つけた時に目に見えてその傷がわかるものでもない
わからない心は、わからないままのあやふやでよいのだろうか?

わかりにくい他者の心を、人の気持ちを理解するには、わかろうとする思いや気持ちは必要だとは思っています。多くの人は、人を第一に思いやるほど、自分に余裕が無かったり、多くの人を受け入れるほど心が広く無い。それなら尚のこと、理解しようとする思いや気持ちは必要だと思う。

虐めとは、その人の人格や人権を叩きのめし否定することです...1

幼児期は、ある保育所と2箇所の保育園、計3回の転園
小学校中学年で、1回転校
そして、中学校でまた1回の転校

親が転勤族だったわけでなく、保育園時代では、保育園の定員というのがあったり、また通いやすい場所に新しい保育園が出来たというのもあり保育所・保育園は、計3回変わった。小・中学校では、それぞれ住んでいた家を引越したので学区が変わり転校した。

幼児期の計3回の転園では、妹が、「トイレがとても近くなる」とか、「頻繁にお腹が痛くなる」とか、「熱が出て中耳炎になる」など、妹は身体症状をよく出したので、妹は母によく心配されていたようだ。
また買物に行っても「もう歩けない」と道端にしゃがみ込むのも妹だ。
私は、ほとんど母の手を煩わすことは無かった。

自分でも言うのもおこがましいけど、幼児期の私は本当に親を煩わせない「良い子」だった。



小学校での転校では、クラス替えのある4年生の1学期の最初に入れるように出来たせいもあり、スムーズに馴染めた。そして小学校卒業までこの小学校にいた。

中学に入り、中学1年の10月に別の地域の中学校に転校した。この時の転校は親が家を購入した為の転校です。

私の入っていた部活はスポーツ競技だったのだけど、前の中学では部活動の練習が厳しかった分だけそのスポーツ競技を自分なりに上達していた。こんなこと自分で言うのも嫌なのだが、先輩よりも上手かったりもした。

もうひとつ、転校先での制服を母がすぐに用意はしてくれなかった。
一人だけ違う制服というのはとにかく目立った。
早く、今の学校の制服を買って欲しいと言っても「子供はすぐに大きくなるから」とか、「家を建てたりしたので今お金が苦しいから」とか、母はいつもお金が苦しいと言って買ってくれない。

だけどその母が地味な慎ましい服装の母か?というとそうでもない。母は今でもそうだが自分の見た目をとても意識する人で「大人は体が大きくならないから」というのを理由に自分の服はしっかり買っている。

学期の途中からの転校生というのもあり、また違う制服を着て目立ってしまうことが「生意気」だというように思われるのに、時間は掛からない。。



部活をしている時に、鞄を渡り廊下に置いていたのだけど、ドブに筆箱とか色々・・捨てられてた。
音楽や美術の移動教室の時に、あるクラスの前の廊下を歩くと「すっげー!生意気!」といわれる事もあった。

でも、このくらいではそんなに気持ちが凹むことは余り無かった。
クラスに仲良くなった友達もいたおかげだと思う。


(2年生に進級する時にやっと制服を買ってもらえました)
2年生になった時、クラスの最初の班グループで一緒だったというのもあり、ある子と仲良くなった。この子はやたらと先輩の悪口を言っていた。私は中1の途中で転校してきたので、その子から先輩の悪口を聞かされても、どの先輩のことを悪く言ってるのかさっぱりわからない。とりあえずよくわからないけど、ただうなづきながら聞くしか出来なかった。

ある日私は、少し不良ぽい先輩から呼び出された。
「トイレで私がある先輩の悪口を言ってた」と言うのだ
私は、「そんな事は言ってない。私では無い」と言ったが、信じてもらえない。

その時に、もしかしたら・・と思った。
仲良くなった友達がよく先輩の悪口を言ってる・・
その子と私が勘違いされてる・・って。。。
でも、その子が言ってる事だとも私は言えなかった・・・



それから・・・、そのいわゆる不良の先輩達から私は、学校への行き帰りや学校内で会えば必ずと言っていいほど
「生意気なんだよーー。ガッコに来てるんじゃねえ」
「すっげーむかつく、顔も見せるな」
「気にイラねえ、死ねよ」
「おめーなんか、いなくていいんだよ」

とにかく学校への行き帰りや学校内で会えば必ずと言っていいほど言われた。
たぶん、ほぼ毎日、言われてたと思う。
不良って、たいてい連るんでるから、数人から毎日言われた。

こういう状況を毎日っていうほど繰り返すと、どうなるか・・?



人それぞれというのももちろんありますが、私の場合は非常に周りを気にする、びくびくする人になってました。自分を否定する言葉、生きているな、存在するな、と毎日言われる。

当然傷付く。でも自分ではどうすることも出来ない。
出来る事と言えば、その不良の先輩達になるべく会わないように祈るしかない、会わないように・・と思うしかない・・・。びくびくした日を毎日過ごしていました

誰かを落としいれることで何か救われることがあるの?--スケープゴート

(初めてスケープゴートというものを認識したとき)

幼児期は、ある保育所と2箇所の保育園、計3回の転園
小学校で、1回転校
そして、中学校でまた1回の転校

親が転勤族だったわけでなく、保育園時代では、保育園の定員というのがあったり、また通いやすい場所に新しい保育園が出来たというのもあり保育園は、2回変わった。


最初の保育園というか保育所は、一時預かり?という感じの小さいところで、私と妹と他の兄弟で4人の子供がいた。一緒だった兄弟は、兄と妹の二人兄妹で、このお兄ちゃんの子がなんだか意地悪だったのを覚えてる

例えば、絵を描いていてその兄妹が「くれよんを貸して」と言われたら、私も妹も普通に貸したりする。でも私達が、その兄妹に「くれよんを貸して」と言うと、絶対に貸してくれない。「なんで貸してくれないの?」と聞いても、お兄ちゃんの方が「自分達のだから貸したくない」という。

なんだかすごくずるく感じたので、その兄妹が貸してと言った時に、私も貸さないと言った。そしたら、すぐに保母さんに言いつける。そして私が叱られた。その時に、「だって、○○君は、私達がいつも貸してるのに、○○君は、貸してくれないから」と保母さんに言ったら、

そのお兄ちゃんは、「そんなことしてない」と言う。そして兄妹で一緒にそうだよねと言ってる。

私も妹とタッグを組んで、言い返したかったが、私の妹はまだ2歳になったばかりくらいで、私達のやりとりをきょとんとして見てる。



それからというもの・・

私の筆箱セットの中に、その兄妹達のくれよんや色えんぴつの一部が入っていた。筆箱セットを空けた私は、何で人の物が私の筆箱セット中に?ときょとんとした。

その瞬間そのお兄ちゃんがすぐに保母さんを呼んで、私がその兄妹の物を盗ったということを言われた。私は盗ってないと言った。でもまた兄妹で、タッグを汲んで私を責める。

私の横には、2歳になったばかりの妹が、横できょとんとしてる。

なんで、その子がそんなに意地悪なのかはわからなかった。

そんなことが数回続いた。

そして、保母さんは、私に対してはどんどん厳しくなり、そしてその兄妹には優しかった。


彼は、私にそれをして何かが気持ちがはれることはあったのだろうか。

私は覚えているけど、彼は今でも自分のしたことを覚えているだろうか・・・

そして、私はこの時期から、人を落としいれるという行為に、敏感に感じるようになる



 私が二十歳過ぎてから、母親に言われたこと

ある保育所に行ってた時、「お宅のお嬢さんはとても嘘つきで将来が心配だ」という手紙を、その保育所の保母さんから貰ったそうだ。母は、なんというひどい手紙をよこすんだと、すぐに読み捨てたらしい。

私は、二十歳過ぎてからそんなことを聞かされて、それまで全く知らなかったのを腹立だしく感じた。出来れば二十歳過ぎてからこのことについて話すのではなく、当時そのことがあった幼児期のその時に話したかった。でも忙しい母が私と話をする・聞いてくれる・・そんな時間は私が幼児期の時の当時はあまり無かった。。

(成長の過程の中では、必要な時期に必要な話をすることが大事なことだが、私の場合いつも母が忙しいということで、私の本当の気持ちは、母へきちんと話したり伝えたりすることが出来なかった。どんなことがあっても自分で考え自分で処理していく・・それが当たり前のように自分は過ごしてきた)

二十歳過ぎてからになってしまったけど、もちろんその保育所であったことを話した。
その時の状況やその時の私の気持ちを、私はとても強調し、母に理解して貰いたかったが、母はただ、ひどいことをいう保母さんだとしか言わなかった。

母に、私の汚名を晴らすきっかけがあったけど、私自身の事実や思いを伝えてるわりには、なぜか私の思いとはちょっと別なところに重点を置いてる母の思いにズレを感じ、すっきりしない気持ちが残った。

余裕の無い親に育てられるというのは、
子供には親の余裕の無い分だけ、何かがどんどん溜まっていく。
そして溜まり溜まった心も、こうやって思い違いですっきりすることも出来ない。



(・・・保育園の話に戻します)
その時の保育所から次の転園した保育園の保母さんは、集団生活の中で身辺自立を早くに求め、集団生活で常にスムーズに行動できる状況を求めたがり、厳しい先生でここでも良い思い出が無い。

嫌な思い出が続いたので、最後の保育園の保母さんがとても優しく暖かい先生で、すごく嬉しくて甘えた。この先生のことがあまりにも大好きで、よく間違えて「お母さん」と何度も呼んでしまうくらい、お母さんの次くらいに、大好きで甘えられる先生だった。

最後の保育園の大好きな先生・W先生は、「母さんの歌」をお昼ね前やお帰りの歌でうたっていた気がする。和田先生は、私達に、「お母さんは働きながら一生懸命育ててるんだよ。」「一生懸命育ててるお母さんが大好きだよね」って話してくれた。



保育園に通ってる子達は、幼児ながらも働いてる親に気を使うことがあって、仕事している親を煩わしたくないと思う気持ちと、甘えたい気持ち、小さいながらにこういった対極の気持ちの葛藤を持ってることがあると思うのだけど、

家事や仕事で忙しく疲れてる親に早くから身辺自立を求められ、保育園でも自立を求められたら、子供は苦しくなると思う。。幼児期は、どれだけ自立出来たかが大事ではなく、どれだけ親に安心して甘えられたかが、大事なはずだから・・

W先生は、子供なりの葛藤やけなげに我慢している気持ちを、「お母さんの歌」で「一生懸命育ててくれているんだよ」ということを私達に伝え、また甘えたい私達の気持ちをいつも受け止めてくれて、私達が先生に甘え、抱きつき、飛びつけば、いつでも受け入れてくれた。

「母さんの歌」   窪田聡 詞・曲

母さんは夜なべをして
手袋あんでくれた
木枯らしふいちゃつめたかろうて
せっせとあんだだよ・・・・


そして、当然だけどW先生は、どんな子にも同じように暖かい。
W先生は、好き嫌いという差別的な行動を子供達に見せ、差別を教えるような先生では当然無い。



心を見ようともしない、解ろうともしない、
断定的な判断しか出来ない人が、事実を見抜けるわけがない。

えばり叱り付けるしか出来ない大人というのがいるということ、
そういう大人が嫌いになったのが幼児期から。


また、スケープゴートを作りたがる心理・思考が、個人的にはどうしても受け入れにくい。
(スケープゴートとは)
不満や不快を感じた時に、そうした問題を他人のせいにいてその問題を解決したかのようにもっていくという傾向を取りたがる一部の人たちがいる。この概念は特定の集団において起き得る事であり、そうした不快感の原因を押し付けられたり被けられたりした個人は、その特定の集団内においてスケープゴートとなるのである。


あの時の保育所の意地悪なお兄ちゃんはどんな家庭環境だったのか私は知らない。

甘えたい盛りの幼い時期に母親と関わる時間が短く、外に預けられ、またそれ以外に愛情を求められない不満が、私などへ意地悪することによって、心が晴れるというのなら、本当にそれこそ私もその子も辛いとしか言いようがない・・・。

そしてそれを助長させることしか出来ない大人が側にいて・・。
悪は悪しか産まないから、悪循環という言葉があるんだ・・

表面でしか見ない・断定的なのが嫌いな理由・・・1

少し前までは、いじめに逢ったことなんてそうそう人に話せることなんて出来なかった。親・兄弟・友達にも話さなかったこと、そう簡単に話せるわけないじゃないか・・って。。。

でも、今ではいじめの経験があったと告白する人も増えてきて、私もどこかでそれを外に出したくなった。閉ざしてきたこと、見ないようにした気持ちを隠してきた10代の日。
そうすることで、今度は強迫性や鬱が自分の心に生まれてくる。

必死に耐え、閉ざすことで、出てくるゆがんだ自分。
その辛さがどんなものかわかるか・・?って

それがわからないヤツに、いじめや不登校の何が理解出来るんだろう??と思う。

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私は小さい頃、公園で遊んでいるといつの間にか知らない子と仲良くなりいつもどこかに居なくなっていたと言われた。小さい頃から人見知りしないのは、今でも変わらない。

ただ、人見知りしないことで、痛い思いもたくさんしたので、今では多少の警戒はするようになった。

それでも、色んな人と隔てなく接するというのは根本にあるので、会などに行くと、明るくて、社交的で、自尊心も低くなるような嫌な思いを今までした事ないんだろう・・と思われるときがある。

明るくて、社交的で・・・、はそう言われて、もちろん嬉しいよ。

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でも、
自尊心も低くなるような嫌な思いを今までした事ないんだろう・・と思われるのは、コレに対しては勘弁してくれ・・と思う。

勘弁して欲しい。人を表面で見たり判断するのは。

必死に、頑張って、辛かったことは必死に閉ざしやってきた

そんなことしたことないヤツには、わからないだろう。

人の生い立ちをなめちゃいけないと思う


自分は、経験したことないから、わからない。
とか、
感性や考え方が違うからわからない

とか、いうのなら、相手と自分が違うというのだけでもせめて認めるべきだ

自分の都合の良い部分だけに、違うことを認めたり、受け入れろを要求したり・・
そういうのは、勘弁して欲しい。

人の気持ちや話も聞かずに、勝手に、断定的に、語ってるヤツを見ると腹が立つ。

なぜなら、

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